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help リーダーに追加 RSS JR北陸線の電車内で起きた暴行事件・バージニア工科大学の銃乱射事件・アメリカ合衆国と武装権

<<   作成日時 : 2007/04/25 14:04   >>

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2006年8月にJR北陸線の特急電車「サンダーバード」の車内で若い女性が暴行され、解体工の植園貴光被告(36)が再逮捕された事件が話題になっている。植園被告の性犯罪に至る経緯や心理については詳細を考察するだけの情報がないが、サンダーバード車内での事件以降にも更に同様の女性暴行事件を引き起こしていたことから犯行の常習性や罪悪感の無さを疑わせる。累犯性のある性暴力(異常性欲)や強迫性のある性衝動の問題に確実に対処できる司法矯正のメソッド(更生プログラム)の開発が急がれるが、被害者が受ける深刻な精神的ダメージを考えると、加害者に対する教育も矯正(心理療法)も処罰も全て事後的な対応にならざるを得ないのが残念である。

実効性のある性暴力の再犯防止体制の確立には各国も頭を悩ませているところだが、初犯であっても再犯であっても被害者が受ける苦痛(心的外傷)や損失(社会的不利益)の大きさは変わらないので事前予防が望ましいことは言うまでもない。しかし、現状で考えられる事前対策といっても小中学校などで実施する性教育くらいなので、無理やりに性行為をすることの非道性や違法性を授業で教えても、それが成人期以降に道徳的な犯罪抑止効果になるかというと疑問である。

アメリカの一部の州では性犯罪者の再犯を防止するために、性犯罪の加害者(元受刑者・執行猶予を受けた者・保釈者)のプライバシー(個人情報)に関する人権を制限するミーガン法を導入している。しかし、ミーガン法による再犯防止の統計学的な有効性は認められておらず、卑劣な加害の過去を持つ犯罪者に対する一般国民の復讐感情のカタルシス(私刑的な鬱憤晴らし)としての効用を果たしているだけという批判もある。

ミーガン法とは、性犯罪の加害者の『氏名・住所・犯罪履歴』などの個人情報を当局に登録させ同じコミュニティに住む地域住民に情報を通知することを義務付ける法律であるが、加害者を要注意人物として地域住民の監視の目に置くだけでは再犯防止効果は期待できないようである(ミーガン法に関するWikipediaの記事)。また相互監視制度が有効に機能するためには、地域コミュニティの人のつながりが温存されている必要があり、人口の流動性が高く隣人への関心が薄い都心部ではミーガン法的な監視体制は機能し難い。

またミーガン法を導入すると、要注意人物のリストに登録され個人情報を開示された加害者の社会復帰が困難となり、職業や住居、生活の平穏を奪われた加害者が自暴自棄になって同種の犯行を行うリスクが高くなる問題も指摘されている。どんなに許されない卑劣で残酷な犯行を行った加害者でも、幾ら真面目にやっても報われずまともな人間扱いして貰えないといった状況に長期間置かれると、真面目に更生して社会復帰するモチベーションが損なわれ、社会憎悪(コミュニティへの復讐感情)の高まりや性的欲望の誘惑に屈しやすくなってしまうからである。

累犯性や常習性のある犯罪加害者は、一般にフラストレーション耐性や欲求の誘惑に抗する精神力が弱く社会的コミュニティへの適応性も低いと推測される。その為、社会復帰を困難にして社会的差別を強めれば強めるほど、前科者の再犯率が上がるのではないかという危惧がある。加害者が社会復帰をすることをそもそも望まないという被害者の視点からの意見も共感できる部分は大いにあるが、全ての凶悪な加害者を終身的に隔離したり24時間体制で常時監視し続けられるわけではない。性犯罪の内容や経緯によってその悪性(危険性・常習性)や動機(ひきがね)は様々であり、更生や反省が十分に期待できる者から全く反省や後悔の意識がない者、収監されたことを逆恨みするような者までばらつきがある。一律に極めて重い厳罰で臨めば再犯の問題が解決するわけではなく、再犯防止と社会復帰に向けた個別的な対応をどうすべきか加害者の内面心理を正確にアセスメントするにはどうすれば良いのかなど非常に難しい問題を含んでいる。

性犯罪に関わらず反社会的な精神障害や性格異常(人格障害)の場合には、司法の強制や法的な裏づけがないと受刑者(被告)本人の心理療法(更生教育プログラム)への受診意欲(来談意欲)は一般に低い。反社会的行動を支える中核的な信念(世界観)の変容のきっかけとなる罪悪感や良心の呵責、他者の権利感覚といったものを喚起することも容易ではない。反社会的な人格の形成過程には、加害者自身の幼少期のトラウマや他者からの愛情の徹底的欠乏、社会的情緒的サポートの不足(疎外感による憎悪感情)といった問題が潜んでいることも少なくない。そういった事情があるからといって犯行の責任が減免されるわけでは当然ないが、悲惨な生活履歴や心的外傷による社会憎悪(妄想的な被害者意識)があると、加害者である自分を『大文字の社会(異性)』による被害者の立場に置く事で、犯行を道徳的に正当化する合理化の心理機制が見られる。

反社会的なパーソナリティ障害の場合には、『自分の欲求充足のために他者を傷つけて何が悪いのか全く理解できない』という共感的な倫理感覚が欠如した病理性の深刻な障害から、『他人を傷つけたいから傷つけ、社会に不安や打撃を与えたいから凶悪犯罪を起こすのだ』という明確な悪意や憎悪を顕示するもの、『自分の行為が違法であり相手に悪いことは頭では分かっているが、強迫観念からくる他害行為(違法行為)を制御できない』という衝動性の強い行動障害まで様々なレベルがある。

先日、アメリカのバージニア工科大学で起きた韓国人大学生チョ・スンヒ容疑者(23)の身勝手極まりない悲惨な銃乱射事件では、『自己に対する徹底的な絶望(死の覚悟)』『社会(他者)に対する妄想的な憎悪(銃乱射の合理化)』が見られた。そのきっかけとなった出来事については未だ明らかではないが、犯行声明としてマスメディアに送りつけられた自己撮影のビデオでは、『富裕層の贅沢や享楽に対する一方的かつ被害妄想的な憎悪・怨恨』が犯行の動機として語られていた。

しかし、チョ・スンヒ容疑者自身はバージニア工科大学の学生であることもあり、彼がにっちもさっちもいかないアメリカの最貧困層として経済的に追い詰められていたとは考え難く、犯行に使用した複数の拳銃や爆弾なども自分で購入していたようである。バージニア工科大学を順当に卒業して就職すれば職業的・経済的な未来もそれほど暗いものだったとは思われないことを考えると、異性につきまとってストーカーとして告発され接近禁止命令を受けた時期の前後から何らかの精神的な変調(あるいは、被害妄想や社会憎悪を伴う重篤な精神障害の可能性など)があったのではないかと思われる。

実際、大学の教員や周囲のクラスメートも事件のかなり前からチョ・スンヒ容疑者の言動や態度に異様なものを感じて恐れており、自傷他害の危険があるとして精神科で入院治療も受けていた。そういった犯行前の情報をつなぎ合わせれば他者に危害を加える恐れが十分予測できる状態で銃火器を簡単に購入できるアメリカの銃社会の問題も合わせて考える必要がある。しかし、アメリカ合衆国において個人が銃で武装する権利は、合衆国憲法修正第2条で認められており、更には、個人が政府(代表機関)に権力を委託するという社会契約説に根ざしたアメリカ建国の精神と革命権、個人の武装の権利(銃火器を所持する権利)には密接な関係がある。

合衆国憲法修正第2条では、『規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない』と定められており、国家権力(警察機関)による人権救済を待てない不正急迫(緊急事態)の場合に、自分や家族の身を自分で守る自衛権は不可侵のものとされる。相手がナイフや拳銃を持っていきなり襲い掛かってきた場合などに、警察に電話連絡してその出動や救援を持っていたのでは間に合わないから自分で武装して戦ったほうが確実(早い)という論理はなるほど合理的なものではあるが、銃武装が肯定される背景には開拓時代のアメリカの建国精神と、既に膨大な数の拳銃が出回っている銃社会の現実がある。

銃が普及していない日本社会では、通常の喧嘩や犯罪に刃物が用いられることはあっても、拳銃が用いられる事はアンダーグラウンドな世界を除いて極めて少ない。その為、拳銃を自分で持って武装するよりも、拳銃を厳しく規制して誰も持たない現状を維持するほうが、致命的な銃犯罪に巻き込まれるリスクが結果として低くなる。確かに包丁とか刃の厚いナイフで襲い掛かられても十分に致命傷を負う危険性はあるが、多くの日本人は、そういった犯罪に出くわすリスクは余り大きくないと見積もっているし、やられる前に相手より先にやるといった自衛的な発想を持っている人は余りいない。銃で武装して自分や家族を犯罪から守れない不安よりも、銃社会になって無差別な乱射事件や街頭での銃撃戦に巻き込まれるほうがよっぽど危ないと考えているだろう。

つまり、『物理的な武力(暴力)』が自由主義と民主主義、人権(人間の尊厳)を根底において保証する権力の源泉であるという認識を持つアメリカ国民と『相互的な信頼(安心)』のほうが『物理的な武力(暴力)』よりも治安維持の実効性が高いと考える日本国民の違いではないかと思う。物理的な武力(軍事力・警察力)が自由や権利を守る為に最も重要と考えるアメリカ国民の保守層は、『合衆国政府・州政府が正当な権力を行使する限りにおいてのみ』その武力(暴力)を行使する権限を国家(政府)に委譲しているのである。社会契約説を踏まえたアメリカの政治権力は、『国民個人が所有している暴力を行使する権限』『国民の自由と権利を保護する政府』に一部委託することによって正統性を獲得しているのであってその逆ではない。

謂わばアメリカ国民は、自分たちの安全と権利を合衆国政府が保護してくれる限りにおいて条件付きで、暴力(軍事力・警察力)を行使する合法的な権限(国家権力)を国家に付与(委託)しているのである。日本では、国民個々人が国家(政府)に警察や自衛隊の合法性を承認しているという発想がないし、そもそも暴力的に民主主義や国家(民族)の独立を確立した市民革命(独立戦争)の歴史を持っていない。その為、政府や警察が遵法精神のある一般国民を守ってくれるという『お上意識(パターナリズム)』が強く、自分たちこそが政府や警察の強制力の根拠であり国家の主権者であるという明確な自負というものも余りない。

戦後日本は戦前ほどには無条件に国家を信用しなくなったとは言っても、大部分の人は自由主義国家となった日本の国家や警察、自衛隊を殆ど全面的に『国民に悪いことはしないもの(正しいことをする公的機関)』という信頼を持ってその国家権力の正統性を承認している。その事自体に問題はないし、政治的な強制力(正統性)の根拠というのは余ほどの変革期や混乱期にない限りは、国民に意識さえされないものである。警察の裏金プールや稀に起こる冤罪事件、初動捜査のミスによる犯罪被害などの問題はあるが、多くの国民は、警察が日常的に賄賂を貰ったり不正捜査をしたりしているほど腐敗しているとは思っていないし、何か犯罪事件などに巻き込まれたら相談して助けを得られると期待し一定の信頼をしている(そして大半のケースにおいては、警察はその期待に一定水準以上の働きで応えていると評価できるだろう)

実際、戦後の日本では、薬害事件や公害事件、病気差別、冤罪事件など予測の難しい健康被害(人命被害)や人権侵害を除いて、国家が国民の自由や権利を不当に侵害したことが殆どない。だから、日本国民が政治機構としての国家(=政府)を内戦や言論弾圧、宗教対立などの問題を抱える他国の人以上に信頼していることには納得できるだけの根拠があるし、今後の日本政府にも奮励して貰って国民の信頼や期待を大幅に裏切ることのない存在であって欲しいと思う。

アメリカ国民の建国精神と武装権の認識、日本国民の自衛意識と公共圏の変質などについてもう少し補足して書くかもしれません。


■書籍紹介
市民と武装 ―アメリカ合衆国における戦争と銃規制
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個人の権力(暴力)を禁止する法治主義国家における加害者と被害者:アメリカ国民の武装権の問題
前回の記事で、アメリカ国民の自衛(犯罪への抵抗力)と革命(政権との対等性)を担保する武装権(自衛権)について考えたが、銃所持に肯定的なアメリカの保守層は、アメリカの伝統的な価値観を守ろうとするパトリオティズム(愛国心)と主権者としての自負心が強い。 ...続きを見る
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2007/04/26 11:28

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