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少し前に幾つかのブログで、人工妊娠中絶の倫理的な是非にまつわる話題が出ていましたが、中絶の問題には『胎児の生存権・子どもの養育責任・堕胎の自己決定権・宗教的な価値観・セックスの特殊的価値』が関係していて、中絶に対する否定感情(罪悪感)には個人によって相当に大きな落差があります。 SOL(生命の尊厳)を無条件に肯定する宗教的な素地のない日本では、他人の中絶に対する批判や非難はアメリカやカトリックの国に比べると非常に弱いと思いますが、キリスト教根本主義の場合には、ヒトの原点である受精卵にも人権(生存権)を認めようとする主張があります。この立場に立てば、臓器(器官)の再生医療の研究で使われている万能性のある胚性幹細胞(ES細胞)も、胚(受精卵)由来の細胞なので使ってはならないということになりますが、日本では胎児の中絶に反対の人でも受精卵を利用することに反対の人は余りいないようです。 日本では『ヒトの生命そのもの』に価値を見出しているというよりも、出産後の新生児と出産前の胎児の『形態的・機能的な類似性』に価値というか罪悪感の根拠みたいなものを見出していると思います。時間経過と共に成長して人間になり得る生命には無条件に保護されるべき価値があるとするのがSOL(Sanctity Of Life)ですが、SOLをフェミニズムの領域から反駁したのが堕胎の自己決定権としても知られるリプロダクティブライツ(reproductive rights)という権利概念です。 リプロダクティブライツというのは、生命の再生産と生殖の自己決定に関する女性の権利であり、国家・社会・男性・宗教による生殖行為への倫理的・法的な干渉を排除しようとするものです。単純にいえば、子どもを産むか産まないかの決定権が女性の側にあるとする権利概念ですが、人工妊娠中絶を倫理的・法的に肯定する論拠として使われることもあります。 中絶が女性の権利であるという考え方は、中絶の責任(悪性)が産まない男性よりも産む女性に問われやすいという『責任訴求の非対称性』に根ざしている部分もありますが、中絶を法的な犯罪(堕胎罪)にしようとするような規制の動きを牽制する意図もあると思います。日本ではリプロダクティブライツという女性の権利概念によって中絶を積極的に自己正当化するよりも、QOL(Quality Of Life:生活の質)の価値判断によって、無理して育てられないのに産むよりも初めから産まないほうがよいという形で中絶を容認する人のほうが多いのではないかと思います。 『胎児の生存権』を生後の新生児と同じく無条件に認めるべきという意見に関しては、痛みや恐怖を感じる知覚・認知の心的機能を備えた自我意識に『生命の尊厳の根拠』があるとするパーソン論によって留保することができます。パーソン論を含む中絶の生命倫理学的な考察については、過去の『神の視点・自我意識(パーソン論)・共同体利益』という記事においてしましたので興味のある方は読んでみて下さい。 日本では胎児の生存権そのものが公的な場面で議論されることは少ないように感じますが、それはキリスト教的な世界観にあるように、生まれてくる胎児が神の子ども(社会の子ども)であるというような『新たな生命に対して抱く公共性』が日本では伝統的に弱かったのではないかと思います。『子どもは社会の財産』というフレーズは日本でも確かにありますが、そういった建前はあっても、やはり子どもは各家庭において責任と愛情をもって育てられるべきだという倫理観のほうが一般的には強いと思います。 日本で子どもに躾をする時の決まり文句の一つとして『他人(世間)に迷惑をかけてはいけない』という言葉がありますが、こういった言葉にも『自分の家庭』と『外部の社会』の責任領域を切り分ける倫理観や子どもの家庭(夫婦)への帰属の強さが表現されている感じを受けます。子どもの社会(他人)への帰属が強ければ、子どもの誕生は夫婦二人だけの問題ではないとする主張も説得力を持ちますが、その場合には、社会全体(社会の構成員)で親のいない子どもを養育する経済的・感情的コストを負う必要が出てきます。 しかし、日本人の持つ『他人(世間)に迷惑をかけてはいけない』という基本的倫理観の束縛力は強いので、望んでいない妊娠をした女性(カップル)が、中絶せずに社会(他人)に子どもを任せるという判断をすることは中絶の判断をすることよりも敷居が高いと思います。また、子どもの養育責任を完全に放棄できても、子どもを産んで他人(施設・病院)に預けたという過去の記憶を完全に消去することは出来ませんから、中絶する以上の罪悪感を感じ続ける可能性も否定できません。その意味では、子どもの胎児期の生命そのもの(SOL)よりも子どもの出生以後の人生の経験(QOL)を重視している大人が多いことも、日本の中絶件数の多さに関係しているでしょう。 ヒトの生命はその発達段階とは無関係に無条件に保護しなければならないというSOLの倫理観が日本には浸透していないので、日本では倫理的な悪性の相対的な評価として『遺棄>虐待>中絶』といった評価がなされやすいのかもしれません。AyanoIchijoさんのブログに以下のような記述がありましたが、これは妊婦の利益の立場に立つにせよ胎児のQOLの立場に立つにせよ、(大多数の人が中絶を容認する根拠を考えると)それほど平均的な倫理観からかけ離れたものではないと思います。
無論、確実な避妊によって中絶のリスクを最大限回避することが望ましいのはいうまでもありませんし、個別的な中絶に至る経緯にはさまざまな事情や言い分があることと思いますが、中絶を肯定する倫理の大枠は、『育てるつもりがないのに産むことは罪悪である・産まれる以前の胎児と産まれて以後の人間とを区別する』という価値観に根ざしています。 血のつながった親がいないことの不利益や親が子どもの養育責任を放棄することの是非をどのように判断するのかの違いによって、中絶に対する倫理判断のスタンスは変わってきます。もしくは、AyanoIchijoさんのブログにもあるように、『自分(パートナー)の妊娠・出産・中絶』には関心があるが、『他人の妊娠・出産・中絶』には関心がないので、他人が自分の生殖関連行為に対してどのような判断をしようとも干渉するつもりはないというのが多数派の考えかもしれませんが、それを言うと話が続かないので、とりあえず、一定の倫理的関心があるという前提で考えていきます。 母猫が遺伝的(体質的)な脆弱性のある仔猫を間引きするという逸話から感じたのは、自然界の摂理は人間社会の倫理のモデルにはならないが、『子どもの生命・権利に対する倫理観』は自分自身の生命が脅かされるほどの極限状態において試されることになるだろうということでした。 人間社会の歴史過程や途上国で子どもが置かれている状況を考えると、生存が困難な極限状態や貧困環境においては、『弱者である子ども』は必ずしも最優先されて守られているわけではなく、むしろ積極的に大人社会の被害者となっている厳しい現状があります。まだ幼い子どもが、まともな教育さえ与えられずに労働力として酷使されたり、児童売春で性的な搾取を受けたり幼少期に遺棄されて浮浪児(物乞い)になったりしている苛酷な現実は世界の至るところにありますが、日本ではそこまで苛烈な子どもの搾取(虐待・浮浪)はなくても、『保護・養育してくれる親』がいない不利益の問題を意識する人は多いように思います。 いずれにしても、日本では、産んだからにはきちんと責任を持って社会に迷惑を掛けない子ども(大人)に育てるという倫理観が重要視されており、成人した子どもが社会に脅威をもたらすような凶悪犯罪を起こした場合にも『そういった子どもを放置した親にも責任がある』という論調が強まることがあります。子どもの基本的な養育だけでなく成長後の社会適応性(犯罪行為)にまで親の責任を問われるような風潮があると、中途半端な覚悟で子どもを産むという選択は非常にしづらいというのが必然の帰結となります。 中絶問題の議論では、『(中絶するくらいなら)産むだけで良い』とする中絶反対派の主張もありますが、日本では『子どもを出産する選択』と『子どもの養育責任』がセットとして意識されている為に、産んだからには夫婦で責任を持って育てなければならないという義務感が強まりやすいといえます。子育てに対する物理的・倫理的な義務感を少し弱めて、社会全体の責任として子どもを産める制度をつくっても良いのではないかという考え方もあり得ますが、誰か他の人に育ててもらったとしても、親子の関係性という遺伝的事実そのものは消せないので、『経済的なコスト』を免除されても『心理的な重圧感』がネックになると思います。 心理的な重圧感というのは、どこかで今も子どもが生きているという現実の重みであり、『なぜ、育てる気がないのに自分を産んだのだ』と未来の何処かで我が子に非難される恐怖ですが、実際には、その子どもがどのような人生を歩むのかは予測できず、産んでくれただけの親に感謝する子どももいれば長期にわたって親を恨み続ける子どももいるでしょう。しかし、それは産みの親から見捨てられた子どもだけに起こる感情ではなく、大切に育ててくれた親に対しても『なぜ、こんな自分を産んだんだ(産まれてこなければこんな苦しみや屈辱はなかったのに)』という非難をぶつけて家庭内暴力を振るうような子どももいるのですから、子どもから産んだことを非難される恐怖というのは、どの親にでも多かれ少なかれあるものだと思います。 親からすれば『初めから産まれてこなければ良かった』という子どもの非難を恐れ、子どもからすれば『お前みたいな子どもを産まなければ良かった』という親からの拒絶を恐れるわけですから、親子関係の進展や子どもの心理的成長というのは非常に際どい綱渡りの部分を抱えています。こうすれば必ず親思いの良い子(社会・他人に迷惑をかけない子)に育つという黄金則みたいなものはなかなかありませんが、親と子がお互いの幸福や健康、立場を思い合う気持ちがあれば、一時的に親子関係が険悪になってもいつかは和解し許しあえる時がくると思います。 出産を能動的に選択した人の強みというのは、『なぜ、私を産んだのか?』という子の問いに対して『私があなたを欲しいと思ったから産んだのだ』と正面から答えられることにあるのかもしれません。出産を受動的あるいは義務的に選択する場合には、『お前のせいでこんな苦労をさせられている(お前を育てるのに幾らかかっていると思っているんだ)』というような子の存在意義に対する否定的な評価を下すことを恐れる部分もあるのではないかと思います。精神的な攻撃や虐待を受けても、死ぬよりは生きているほうがマシであるという価値判断は尊重すべきですが、一生懸命に育てようと頑張ったが結果として子どもを傷つけた場合と、初めから投げやりに育てて半ば意図的に傷つけた場合とでは子どもに与える苦痛や悲しみに違いがあるようにも感じます。 望まない妊娠をして中絶を選択する人には、『初めから産まれてこなければ良かった』という成長した胎児の内面の声を無意識的に想像してしまう人が多いのかもしれませんが、生命に対する肯定感覚や養育責任の重さの実感によっても考え方は変わってくるでしょう。経済的に苦しいから、ただ衣食住を賄って義務教育だけを受けさせればいい(健康に育ってくれさえすれば良い)と割り切れる人と、産まれたからには、厳しい社会を生き抜くために子どもの将来に役立つような高い教育や良い環境を与えなければならないと完全主義に悩む人では、子どもを持つことに対するハードルが大きく異なってくると考えられます。 恐らくそういった育児や生命に対する中核的信念というのは、今まで生きてきた人生の中で、『生きていさえすればとりあえず何とかなるものだ、人生には幾多の苦しみもあるがそれ以上の喜びがある』という楽観的な人生観を築いてきたか、それとも、『人生というものは喜びよりも苦しみが多く、生半可な努力と準備では生き抜くことが出来ない』という悲観的な人生観を築いてきたのかによっても変わってくるでしょう。 赤ちゃんの生命を守ることを目的にした『赤ちゃんポスト』の設置を、熊本市のカトリック系病院である慈恵病院が計画してニュースでも取り上げられていましたが、赤ちゃんポストは『危険な遺棄・児童虐待・人工妊娠中絶』の問題を緊急避難的に解決するセーフティネットとして興味深い試みだと思います。人工妊娠中絶を減少させる根本的な対策は個々人が避妊を徹底することしかありませんが、望まない妊娠をしたけど里親や施設が責任を持って育ててくれるなら産んでも良いという女性には、『中絶以外の一つの選択肢』を増やすことにはなると思います。 厚生労働省の見解でも、子どもの生命を守る目的を持って安全性が確保された赤ちゃんポストという場所に放置するので、保護責任者遺棄罪の違法性は認められないということですが、安易な育児放棄(捨て子)の増加や養育責任の原則の弱体化を招くのではないかという懸念もあるようです。しかし、本人(母親・父親)に育てる意志や能力がない場合に無理に育児をさせても、虐待やネグレクトによって子ども自身の身体や精神が傷つけられるリスクが高くなりますので、赤ちゃんポストに預けるという選択肢を作ることは悪いことではないでしょう。 発祥地であるドイツでは円滑に機能しているというこの赤ちゃんポストを、日本において子どもの利益に適う形で活用していくためには、実父母と同等の養親と戸籍をもつことのできる特別養子縁組を経て育てることが望ましいと思います。しかし、日本では明治期以前には非常に盛んだった養子縁組が廃れて久しいので、子どもを持ちたいのに子どもが出来ない夫婦に、特別養子縁組制度の存在と内容を知ってもらい、その利用を検討してもらう積極的な取り組みが必要になってくると思います。
■関連URL 『神の視点・自我意識(パーソン論)・共同体利益』と関係した倫理規範の根拠:生命肯定の倫理 母親が娘の子供を出産する“代理母”と亡きパートナーの凍結精子を利用する“死後生殖”の生命倫理:1 母親が娘の子供を出産する“代理母”と亡きパートナーの凍結精子を利用する“死後生殖”の生命倫理:2 ■書籍紹介 母性愛という制度―子殺しと中絶のポリティクス
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カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/05/16 00:58 |
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カウンセリングルーム:Es Discov... 2010/03/25 13:52 |
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