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近代統計学の黎明期を築いたフランシス・ゴールトン卿は、優生学を提起する以前にも徹底的に『あらゆる差異を定量化して測ること』に執着的な熱意を燃やした人物であったようで、グールドは『定量化の使徒』という副題をつけています。しかし、本書のタイトルが“測りまちがい”とあるように、自然科学は研究対象となる事物を客観的あるいは計画的に『計測すること』によって始まり、計測して得た『数値データ』を分析したり解釈したりして一般理論へと帰納していく学問的営為ですから、ゴールトンの“客観的計測へのこだわり”は科学者として必要な素質ともいえます。 フランシス・ゴールトンという科学者は、生得的な遺伝子によって人間の形質や所属階層など全てが決まるという遺伝決定論者であり、客観的に計測することが可能な人間の能力・特性の全てが親から子へ遺伝すると主張しました。チャールズ・ダーウィンが『人間は意識的な努力によっても、能力や機能を伸ばすことが可能です』という意見を書簡に書いたところ、ゴールトンは『その努力できるかできないかの素質さえ、遺伝的に既に決定されているのです』といった返事を書いて送ったというエピソードが紹介されています。このように書くと、優生学を提唱した危険思想を持つゴールトンだから、『人間の能力・特徴・階層の全てが遺伝によって決定される』などという荒唐無稽な仮説を立てたのだろうと思うかもしれませんが、生物学や人類学、心理学の歴史を振り返ると、20世紀初頭まで各時代の一流の研究者の殆どが遺伝決定論(生物学的決定論)に傾いていました。 故に、行動主義心理学(行動科学)のジョン・ワトソンが唱えた環境決定論というのは、当時のアメリカにあって実に衝撃的で革新的な理論だったわけです。『生育環境さえ整えればどんな子どもでも希望通りの職業や階層につけることができる』と豪語したワトソンの環境決定論も、遺伝要因を完全に無視しているという意味でゴールトンとは逆方向へ極端に偏っていますが、現代の心理学では、『氏か育ちか』論争は遺伝要因と環境要因が相互的に作用する輻輳説(ふくそうせつ)に落ち着いています。 以前は、遺伝要因が何%、環境要因が何%影響することで個人の性格や能力が漸成的に形成されるといった議論がされていましたが、現在では、遺伝と環境がどのくらいの割合で影響するのかを識別する観察や実験が不可能であるため、どちらが何%の影響を与えているというような主張は全てナンセンスであるとされています。何故、19世紀から20世紀半ばくらいまでの生物学者や心理学者の多くが、親から子へ伝わる遺伝形質や生物学的特徴を重要視したのかの理由は明白であり、『白人が、黒人や黄色人種、未開民族よりも生得的に優秀であるという生物学的証明』の目的論に囚われた形で研究していたからです。 実際には、古代ギリシアの哲学者であるプラトンの政治思想書『国家』において、君主・貴族(戦士)・庶民の身分が「生得的な要因(金・銀・銅の人間への混入)」によって決定されると書かれているように、近代科学の誕生以前から、現在ある社会階層(社会経済的役割)や能力・適性が生まれながらの要因で決まっているという理論はありました。インドのヒンズー教にある伝統的な身分制度であるカースト制も、生まれながらに社会階層が決定されそれを個人の努力や意志によって変更することは出来ないと説きます。しかし、ヒンズー教やギリシア哲学の場合は、飽くまで人為的な作り話であり慣習的な宗教制度ですから、現実的にそれを否定することが難しくても、原理的には曖昧な根拠に基づく理論構成となっています。 実証的な科学研究を前提とした20世紀半ばまでの生物学的決定論(遺伝決定論)や優生学の本質的な危険性とは、『自然主義の誤謬の先鋭化』でした。科学研究が、政治状況や社会世論、宗教信仰、人種差別など『特定の価値観』と無縁であるという建前を取りながら、『客観的な根拠(科学者集団が客観性と中立性を認めた根拠)』を用いて、既存の支配と差別、格差、貧困、政治的放置(教育支援や社会保障の無効論)を全面的に肯定しようとしました。19世紀から20世紀初頭にかけて欧米では、正に、『自然的事実(遺伝形質に基づく知的能力・知能指数・政治能力)が、社会階層に基づく役割を決定しているので、それを人為的に変更してはいけない』という自然主義の誤謬が猛威を奮ったのです。 もっと簡単に言えば、『後天的に否定することの出来ない科学的論拠(生物学的要因)を、科学を余り理解しない被支配者階層(貧困層・被差別層・女性)に権威的に押し付けること』で、既存の差別待遇や奴隷制度、女性蔑視を肯定しようとしたのであり、政治的な不平等や無為無策(教育・医療・社会保障を与えないこと)に有力な客観的根拠を与えたのです。つまり、彼ら(彼女)は生まれながらに高度な教育内容や複雑な政治問題を理解する知性(知能指数)をもっていないので、彼らに義務教育を与えることは財政の無駄であり、彼らに参政権を与えることは社会秩序の危機につながるというわけです。 優秀な遺伝的素質を持つ白人(コーカサス族やアングロサクソン族など)以外には、権力や財産を与えてはいけないし、社会のルールである法律の制定過程に参加させてもいけない、教育を与えてもそれを理解する生得的知性が欠如しているので公費の無駄であるという、今からすると無茶苦茶な差別的意見がまともに議会や学会で通っていたのが、19世紀のヨーロッパやアメリカでした。しかし、当時のアメリカやイギリス、フランス、ドイツの白人の支配階層(知識階層)の人たちは、こういった黒人やネグロイド、インディアン(ネイティブ・アメリカン)、インディオ、アジア人に対する差別的政策を悪であるという倫理自体を持っておらず、遺伝によって決定され帝国主義の歴史によって証明された『人種間の優劣』の区分に従って、最適な社会的役割と経済的役割を果たすのが善良な市民の義務であるとさえ考えていました。つまり、自然界において淘汰されるのが常である社会的弱者の保護や福祉を打ち切ることが、進化論的な適者生存を加速し社会的活力と経済的繁栄につながるという悪しき『社会ダーウィニズム』の原点が芽生え始めた時代だったのです。この社会ダーウィニズムを社会生物学として理論的に精緻化させていく科学者が、E.O.ウィルソンであり、このE.O.ウィルソンの社会生物学については『第七章 否定しがたい結論』で少しだけ言及されています。 現在、人種差別に対して非常に厳しい政治的・社会的ペナルティを科すアメリカでさえ、ナチスドイツの悲惨なホロコーストと自国の公民権運動の経験を経なければ、生物学的決定論を捨て去れなかったし、完全な人種平等主義の倫理に到達することが出来なかったのです。そればかりか、18世紀〜19世紀の欧米において、人種や民族を越えた完全な平等主義を主張する人物は、既存の社会秩序を脅かすという意味で、ある種の危険思想家と見なされる向きさえあり、アナキスト(無政府主義者)やコミュニスト(共産主義者)と同類の現実を分かっていない人間、学識教養に乏しい人間と侮蔑されていました。 単一民族国家として、肌の色や脳容量、骨格など生物学的な特徴(分類)による差別を経験したことのない日本では、欧米とアフリカ・アジアの間で繰り広げられた人種・民族の差別問題の根深さを実感することは難しいですが、客観性・中立性を前提とする自然科学までを動員して、『差別の正当性・支配の歴史の必然性』を確立しようとした歴史があったことは意識しておく必要があるでしょう。 そして、現代社会においても、政治判断や社会福祉政策に影響を与えるような科学的研究は依然として存在しています。政治家や知識人(学者)、評論家が、『科学的な決定論』や『統計学的なデータ』を用いて、政策の正当性や規制(罰則強化)の必要性、社会福祉打ち切りの妥当性を主張する場合には、その科学的根拠の前提に『特定の価値観や先入観(偏見)に基づく目的論』が混入していないかを絶えず疑ってかかる姿勢が大切だと思います。アメリカでは、保守反動的なイデオロギーと生物学的決定論(や統計データの恣意的な解釈)が結びつきやすいといわれますが、『このままでは、古き良き時代が失われてしまう』という旧来の富裕層や中流階層の焦燥感や不安が、科学的な後ろ盾を求めるとも言えるでしょう。 スティーブン・J・グールドは、生物学的決定論に代表される科学的客観性を誤用した決定論には、『既存社会の政治的平等(権利の平等)への変化を抑止する悪影響』があると喝破し、いつの時代でも科学は、既存社会の政治的脈絡や経済的インセンティブ、社会の中心的価値観の影響を受けざるを得ないといいます。私も、客観的とされる自然科学が『ありのままの世界の事実』を観察できるだなどと過信することは危険だと思いますし、『対象の測りかた(観察・実験の方法)』や測定した結果として出てくる『数値データ』が客観的だとしても、その統計データや計測データを科学者がどのように解釈して理論化(法則定立)するかによって意味合いが大きく変わってくると思います。
前述したように、自然科学は『反証可能性・方法の客観性・価値の中立性』を前提としているはずですが、社会階層や政治状況と相関する“人類(人種)”を対象とした自然科学の歴史は、「白人至上主義を前提とする人種差別主義」や「男尊女卑を前提とする女性差別主義」といった偏った価値観に非常に強い影響を受けていたわけです。しかし、自説を肯定するために意図的な証拠の捏造やデータの改竄をした悪質な事例もあるが、多くの良識ある科学者は、明確に差別意識を持って研究をしていたわけではないとスティーブン・J・グールドはいいます。 自然科学は“数量的なデータ”というある種の絶対権威によって問題事象にラベリングをする力を持ちますが、客観性を突き詰めた頭蓋計測学を構想したポール・ブローカー(1824-1880)は、『客観的な計測法』を実施することにはある程度成功しましたが、『計測データの解釈』に無意識的にせよ社会的偏見(白人至上主義・男性優位主義)を混入してしまったのです。 経験主義的な実証科学を理想としたポール・ブローカーは、『脳容量(脳の大きさ)』が直接的に知能水準と相関していると考え、体型(身長・骨格・体重)や性別を無視して、男性より脳が小さい女性は男性よりも知的能力において劣っており、優等人種である白人は劣等人種である有色人種よりも脳が大きいと主張しました。ポール・ブローカーは、『事実を理論に優先させるのが科学である』という前提を遵守した科学者でしたが、白人文化圏に普及していた『白人男性→白人女性→黒人→貧困層→精神遅滞という知能の絶対的階層秩序』の先入観と偏見から自由になることが出来ませんでした。人類の形態や能力は、ブローカーの固定観念にあったように直線的でもなければ階層的でもなく、人種間の相対的差異よりも個人間の相対的差異のほうが大きいという意味で、非常に大きな多様性があり乱雑性があったのです。 ブローカーは『意図的なデータの改竄』や『卑劣な証拠の捏造』によって科学者としての名誉を地に落とすことさえなかったものの、『事実とデータの間に生まれたギャップ』を補正するために自分の持論を次々と捨て去り、『脳の大きさと知能の直接的な相関関係に関する仮説』の殆どを否定する皮肉な結果になりました。つまり、非白色人種の脳の大きさが白色人種を上回っていた場合には、『確かに、脳の大きさが大きいことはデータによって明らかである。 しかし、劣っている人種が優れている人種よりも大きな数値を示す“脳の大きさ”という指標自体が、知的水準を直接決定するわけではないのだろう』と解釈するわけです。最後には悪あがきをして、『脳の大きさが大きいグループでは、エスキモーやマレー人が白色人種を上回っているので全く理論的な意味はないが、黒人やアボリジニーの脳の大きさは明らかに白人より小さいので、脳の大きさが小さいグループでは脳と知能には直接的な相関があるに違いない』という論理破綻した解釈へと行き着きます。 ブローカーの弟子で社会心理学の創始者として知られるギュスタヴ・ル・ボンは、『群集心理学』という現代にも通用する心理学史上で重要な著作を書いていますが、彼も西欧に蔓延していた女性差別思想の影響を免れることが出来ませんでした。ル・ボンは、知的能力や教養水準において平均的男性に優越する女性が存在するのは客観的事実だが、彼女たちは生物学的に見ると一種の奇形だから統計学的には無視して構わないと主張しました。 社会心理学者ル・ボンは、伝統的な性別役割分担を破ってはいけないと説く保守主義者でしたが、女性は学問などをせずに家事・育児に従事すべきであるという根拠は『自然的事実(遺伝要因)』にあると考えていました。女性に高等教育を与えて高い社会的地位に就かせることは、自然の秩序を乱して伝統的家族像を瓦解させると主張したル・ボンですが、『男性は仕事・女性は家庭という価値観』は、現代社会にも反ジェンダーフリーのような形となって根強く残っています。 保守的に家父長的な家族関係を肯定する人であれば、無意識的にせよ『有史以来の長きにわたって、男性と女性は仕事と育児という異なる役割を果たしてきたのだから、それを大幅に変えるべきではない』という文化的決定論(伝統主義)の考えを持っている人は意外に多いかもしれません。安定した社会環境や男女関係を守りたい、大きく世の中を変えるのは危険であるという保守傾向を持っている人であれば、ル・ボンを時代錯誤な女性蔑視の心理学者として退けることには抵抗があるかもしれませんが、本書に記されたル・ボンの差別的発言そのものは現代では支持されないでしょう。 私はこの本を読むまで、ル・ボンがここまでラディカルな女性差別論者だとは知りませんでしたが、19世紀のイギリスやフランスでは科学者共同体の内部だけでなく、社会全体で女性を抑圧する風潮(女性の社会進出や高等教育に否定的な世論)があったので、彼だけが特別なミソジニー(女性憎悪)を持っていたわけではないと思われます。日本においても、戦後までは女性には高い教育を受けさせる必要はないとか、仕事よりもすぐに結婚して子供を産むべきだという男性原理的な慣習・伝統があったことを思うと、(男性・軍人の発言力が増す戦争が多かったこともあり)洋の東西を問わず、女性の権利や発言が抑圧される流れにあったといえます。ただ、体格差や性差、栄養状態による数値の適切な補正をせずに、男性と女性の脳の大きさ(容量)を直接比較していたブローカーやル・ボンのような頭蓋計測学者は、知能のレベルをランク付けするという目的に対して、原理的にナンセンスな研究をしていた(目的そのものも反証可能性がなく科学的価値がありませんが)といえるでしょう。 『第四章 身体を測る』では、進化論にありがちな誤解である『進化の直線的な進歩性』について触れていますが、当時の白人の進化論者の多くはエルンスト・ヘッケルの『個体発生は系統発生を繰り返す』という反復説を、『人類は系統発生を繰り返す(劣等人種は優等人種の進化の前段階にある)』という誤った解釈に拘泥していました。 進化論は、『遺伝子頻度の変化の過程=環境変化に適応する為の生物種の変化の過程』を説明する科学理論体系であり、本来は進化という言葉に『前進的進歩・発展的成長』という意味は含意されていないのですが、人種グループによる知能・能力のランク付けの目的にこだわる科学者の多くが、『進化とは、より優れた種へと向かう進歩の流れである』という誤解をしてしまいました。その為、黒人やネイティブ・アメリカン、白人女性は、白人男性から見ると『先祖がえり=進化の前段階への後退』を起こした種であると見なされるようになり、劣等な人種や民族では、類人猿に近似した生物学的特徴が見られるはずであるという主張が多くなりました。 その為、『誤解された進化論』を前提とする差別主義では、『類猿性(アピッシュネス)』や『幼児性(インファント)』といった要素が劣等性の証拠とされるようになっていきます。その結果、白人男性のような成熟した大人になりきれないという意味で、『黒人・女性・黄色人種は子供っぽい』という表現が用いられました。今でも『身体は大人だが、心は子供だ・あいつらは文明社会に適応できないサルみたいな奴らだ』というような侮辱表現が残っているように、現代社会でも『精神(知性・理性)が、成長し切れていない・進化の前段階にあって文明社会や社会のルールに適応できない』という生物学的未熟さを皮肉まじりに指摘する人は時々います。 進化の歴史過程は、直接的な進歩・発展の歴史であり、進化の系統樹の先端には最も優秀な種族がいるという進化論の理解は、明らかに正統な進化論解釈から外れており、『人種のランク付け』に都合の良いように恣意的な解釈が加えられたものといえます。因子分析を用いた性格心理学(特性論)の研究とモーズレイ人格目録(MPI)の作成で知られる心理学者のH・J・アイゼンクも遺伝決定論の支持者だったが、白人優位主義の誘惑に抗することができず、ネオテニー(幼形成熟)の概念を用いて黒人の劣等性を証明しようとしました。 ネオテニーとは性的に成熟しても、身体特徴(形態的特徴)に幼児性を残しているということですが、アイゼンクは幼形成熟の度合いが大きいほど成体の知的能力(認知能力)が高くなるので、早熟傾向のある黒人は知能発達に一定の限界があると主張しました。もちろん、ネオテニーと知能発達には何ら因果関係などはありませんので、アイゼンクは『因果関係のない相関性』に基づいて恣意的な理論を構築したに過ぎません。 アイゼンクの誤謬の始まりは、まともな教育を子供に受けさせられない『貧困な生活環境』という極めて明白な環境要因を無視して、発達早期の『運動感覚の早熟性』という知能指数と何ら関係のない遺伝要因を優先したことにあります。実験状況の整備に配慮する科学者であれば、『同程度の生活環境(経済環境)』で成長した子供の知能水準を比較すべきなのに、アイゼンクは富裕な白人層と貧しい黒人層の学習成績を無思慮に比較しただけでなく、その結果の差異を遺伝要因に帰すという誤りを犯したのでした。 ■関連URL スティーブン・J・グールド『人間の測りまちがい 差別の科学史』の書評:1 ■書籍紹介 祖先の物語 ~ドーキンスの生命史~ 上
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スティーブン・J・グールド『人間の測りまちがい』の書評3:ロンブローゾの決定論に基づく刑法思想
イタリアの医師チェザーレ・ロンブローゾは、刑法学のテキストに掲載されるほど犯罪心理学に大きな影響をもたらした歴史的人物ですが、ロンブローゾの構想した『犯罪人類学』というのは単純にまとめれば、『犯罪者は、生まれながらに犯罪者としての解剖学的特徴を持つ(サルに先祖返りした身体的特徴を持つ人間が、原始的本能を制御できずに犯罪を犯す)』という生得的犯罪説を肯定するものでした。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/01/14 07:14 |
福岡伸一『生物と無生物のあいだ』の書評2:生命の一回性と適応性がもたらす機械論的生命観への疑念
前回の記事で書いたこと以外に、『生物と無生物のあいだ』を読む楽しみはもう二つある。一つは『生命とは何か?』という根本的な生命感の刷新に関する記述であり、もう一つは『科学史から見落とされやすい地味な研究者』にもう一度スポットライトを当てて「分子生物学の歩みのプロセス」を再確認できることである。更に、分子生物学の研究現場における実際の作業 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/09/09 07:02 |
ジェームズ・ワトソンの不用意な発言と自然科学が非科学的な“人種”にこだわることの政治的・人道的問題
DNAの二重螺旋構造を発見した功績で、フランシス・クリックと共にノーベル医学・生理学賞(1962)を受賞した米コールド・スプリング・ハーバー研究所会長のジェームズ・ワトソン博士(79)が、『人種による知能格差』に言及したことで話題になっています。既に自分の落ち度を認めたワトソン博士は謝罪を済ませていますが、『黒人は知能で白人に劣る』という遺伝子決定論的な発言を実証的なデータを参照せずに行ったのは、差別問題を抜きにしても不注意だったと思います。こういった科学界の大御所の不用意な発言は、自然科... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/10/22 08:03 |
捕鯨推進派 VS 捕鯨反対派に望まれる科学的根拠に基づく議論
<記事要約> 「いまだに科学研究の目的と称して、捕鯨を続ける国々があります。... ...続きを見る |
専門家や海外ジャーナリストのブログネット... 2007/10/30 21:00 |
“自然・本能”と“人為・文化”によって規定される人の行動2:福祉国家と自然界、優生学の誘惑
1929年の世界恐慌(大恐慌)の『暗黒の木曜日』の後には、各国の経済が行き詰まりを見せて悲惨な第二次世界大戦も勃発しましたが、戦後は冷戦構造と順調な経済成長によって先進国の人類はかつてないほどに『人権(個人の権利・自由)』を尊重するようになり、(特に国内・自民族の)できるだけ多くの人が生存と幸福を享受できるようにという『倫理的な理想』を持って社会制度・社会保障・政策判断を積み重ねていきました。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2012/03/07 23:53 |
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