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『泣くから悲しい』のジェイムズ=ランゲ説が発表当時にもたらした衝撃は、『涙腺から涙が出る』という生理学的変化が『悲しみを感じる』という情動反応よりも時間的に先に起こるという事でした。 ジェイムズ=ランゲ説では、喜怒哀楽の情動形成よりも早く末梢神経系の生理学的反応が起こるという『末梢起源説』に力点が置かれているので、『(外部情報の)大脳皮質による知覚→末梢神経系の生理学的反応→大脳辺縁系の情動反応』という時間的順序が示唆されています。 ジェイムズ=ランゲ説を反駁するキャノン=バード説では、脳が外部情報を知覚すると、情動形成の中枢である大脳辺縁系の視床(視床下部)で各種の情動が生気すると考えました。『中枢起源説』のキャノン=バード説では、『(外部情報の)大脳皮質による知覚→中枢神経系(視床下部)での情動反応→末梢神経系の生理学的反応』という時間的順序になりますが、現段階でも、情動の自己認知と生理学的反応のどちらが早いのかについては立場が分かれています。 キャノン=バード説でも生命の危険や恐怖の記憶と結びついた外部情報は、闘争・逃走反応(fight or flight response)の反射行動として処理されることがあります。その場合には、大脳新皮質での感覚野から視床下部へ情報が送られて情動認知が発生する前に、反射行動という生理学的な反応が起こることになります。心理的な情動体験も生理的な反射(行動)も、人間が自己保存をするための環境適応機能なので、状況や場面によってどちらがより適応的なのかは変化してくるのです。 但し、『人間の脳(身体)』の機能を適切にコントロールするような、心身二元論的な高次の『精神(心)』の存在については、ジェイムズ=ランゲ説もキャノン=バード説も触れていません。主体性を発揮する自由意志は、大脳新皮質の高次脳機能によって発現する『自我意識』の存在によって、半ば自明のものであると考えられているからです。 動物的本能をコントロールする進化生物学的な脳の発生過程を考えたポール・マクリーンの脳の三層構造仮説では、『爬虫類脳(脳幹)→旧哺乳類脳(大脳辺縁系)→哺乳類脳(大脳新皮質)』という発生段階を経て、現在の人間の理性的な思考や衝動の抑制力、計画的な行動制御が生まれたと考えられています。 ポール・マクリーンの脳の三層構造仮説で示される理性的で抑制的な『哺乳類脳(neomam-malian brain)』が、絶えず、自己保存に関係する動物的本能を司る『爬虫類脳(reptilian brain)』や喜怒哀楽の情動的判断を司る『旧哺乳類脳(paleomammalian brain)』を完全にコントロールして環境に適応できるという保障はなく、前頭前野の機能不全や脳内化学物質の分泌障害などによって攻撃的本能や衝動的行動を抑制できなくなることがあります。 とはいえ、大脳新皮質(哺乳類脳)単独では、高次脳機能を有効に動機付けたり自己防衛行動を適切に制御することが出来ないので、本能的欲求を司る爬虫類脳としての『脳幹(brain stem)』と情動的な適応行動を司る『大脳辺縁系(imbic system)』との相互補完的な連携と協調が必要になってきます。 人間社会で起こる『犯罪・暴力・レイプ』といった反社会的行動(個人間の攻撃行動)の問題や『戦争・紛争・テロリズム』といった集団力学的行動(集団間の攻撃行動)を、脳科学的に考えてみると、『利己的・排他的・防衛的な本能的欲求』を前頭前野が動物的本能(性衝動・攻撃本能)を抑制できなかったり、大脳辺縁系の情動的価値判断が歪められることによって起こってきます。 フロイトの精神分析理論では、性衝動や攻撃欲求といった原始的本能は、自我構造論の『エス(イド)』として定義されました。そして、そのエスを社会化して抑制する精神機能(良心・倫理観)として、エディプス・コンプレックスの体験によって形成される『超自我(superego)』が考えられました。現実検討能力を司る『自我(ego)』は、本能的欲求の充足を志向するエスと社会適応のための欲求抑制を行う超自我のバランスをとる働きをします。 罪悪感や後悔の念を殆ど感じずに他者の生命や権利を冷淡に侵害することができる、サイコパス(精神病質者)や情性欠如者、反社会性人格障害、行為障害(発達障害の二次障害)などの場合には、意識の覚醒水準が恒常的に低下していたり、脳内で気分の安定や幸福感、意欲に関与する情報伝達物質(セロトニン・GABA・ドーパミン)が不足していたりすることが予測されます。 各種の生物学的要因によって、共感性や倫理観に関係する感情機能が鈍磨し、無慈悲な計画的犯行を実行することに躊躇しないと考えられますが、上述したような明確な反社会性を示す精神障害(および人格障害)を示していない場合には、強烈な罪悪感や恐怖感の強迫観念に苛まれながらも凶悪な犯罪行為を繰り返してしまう人もいます。 人間を暴力や狂乱、犯罪に駆り立てる原因が何かについて画一的な答えはありませんが、本人ではコントロールできない先天的な遺伝要因や脳の機能障害など『生物学的要因』が根底にあり、そこに、精神的ストレス・社会的不遇感といった『心理社会的要因』が加わって、ストレス耐性(ストレストレランス)の閾値を越えることで暴力や犯罪の行動が起きると考えられます。 前回の『“心脳一元論による責任能力の曖昧化”と“刑法39条の責任阻却事由の原理的考察”』で、刑法39条に定められた心神喪失者と心神耗弱者の刑事責任能力の判定基準の問題について考えましたが、司法精神医学では、生物学的要因による精神障害が、犯罪加害者の認知機能と判断能力を障害している度合いが高いほど刑事責任を問うことが難しいと考えます。 司法精神医学に基づいて為される被告人の精神鑑定では、生物学的原因によって精神機能や適応行動が障害される重篤な精神疾患の有無があるかないかという『生物学的鑑定』と善悪を区別して認識しそれに従って行動を決定できるかという『心理学的鑑定』が用いられます。 犯行時に生物学的原因に基づく重篤な精神の障害があり、物事の善悪・是非を分別して理解する『認識能力』とその認識に従って行動をコントロールする『行動制御能力』を完全に喪失していた場合に、心神喪失が認められ刑事罰を科すことが出来ず無罪とされます。 同様に、生物学的な深刻な精神の障害があり、物事の善悪を判断する『認識能力』とそれに従って行動を統御する『行動制御能力』が著しく減退していた場合に、心神耗弱が認められ刑罰の量刑が減免されます。刑法41条で、14才未満の少年(未成年)も心神喪失者同様に不処罰とすると規定されていますが、これは生物学的発達の不十分さと社会経験の未熟さ、更生可能性の高さなどに配慮した社会政策的な規定と言われています。しかし、責任能力自体の形成は、大体、小学校卒業程度(12歳〜13歳)の時期であると考えられているので、13歳の少年に法的な責任能力が欠如していることをそのまま示すものではありません。 刑法39条の条文だけから見ると、アルコールによる泥酔状態や覚醒剤の薬物乱用などによる一時的な心神喪失も不処罰(不起訴)とするように解釈することも出来ますが、それらは犯罪行為の事前にアルコールを飲むか飲まないか、薬物を摂取するか摂取しないかを自由に選択できる『原因において自由な行為』なので、判例・通説においても心神喪失や心神耗弱を認めず、加害者に法的な完全責任を負わせることが出来ます。 心神喪失者や心神耗弱者の責任阻却による不処罰や刑の減免は、善悪の判断に基づく主体的な行為の選択を行う能力のない人間に、刑罰を与えるべきか治療・矯正を行うべきかという問題でもあります。現在では、山口県光市母子殺害事件などに注目が集まり、被害者遺族の苦痛や怒りの救済が重要視される中で、『加害者の責任能力の有無』ではなく『重大な犯罪の結果』に応じた刑罰を与えるべきではないのかという復讐原理が影響力を増しています。 しかし、厳罰化と復讐法の問題点として、被害者感情の救済がある程度得られる可能性がある一方で、治安維持の効果が余り望めないこと、国家権力による復讐の代替の問題、社会構造に根付く根本的な犯罪の原因に注意が向きにくいことなどが考えられます。 また、死刑を自ら希望する自殺願望のある凶悪犯の増加など、最近、続発する事態への対応として、復讐法は古典的過ぎるだけでなく、長期懲役などはかえって反社会的な衝動や憎悪を増す危険性があります。 犯罪を生み出す貧困・病気・家族関係(虐待)や生物学的原因などを改善する治療・教育プログラムの充実との両立が難しいことも復讐原理が抱える問題であり、『犯罪の懲罰』と『犯罪の防止』『犯罪者の教育・矯正・治療』を両立させられる方策を模索する必要があると考えます。 所与の社会的環境条件による『機会の不平等』や異常な機能不全家族の関係による『精神的なトラウマによる反社会性や対人関係の困難』を改善する視点を持たずに、競争原理が厳しく働くセーフティネットの乏しい自由主義社会において『司法の厳罰化』のみを促進するならば、犯罪者が出る所得階層が半ば固定化しているアメリカのような事態を招く危険性があります。 自らが生れ落ちた『所与の環境』によって犯罪行為の責任転嫁や免罪をすることは出来ませんが、自己の努力や選択ではどうにもならない『所与の環境』に著しい貧困や苦境がないように改善することで、社会の治安や各人の安全を回復することが出来ると予測されるからです。犯罪者や貧困層の囲い込みを行って、セキュリティや刑罰体系のみを強化する方法論では、悪しき隔離政策(セパレーティズム)や不可逆的な階層社会の構築につながる恐れがあり、社会の経済成長力や活力を低下させる可能性もあります。 また時間を見つけて、今回の内容で書ききれなかった犯罪行為と心理社会的要因(環境要因)の関係、生物学的原因による脳の機能障害と自由意志の問題、凶悪犯罪に対する『司法の厳罰化の要請』などについても考えてみたいと思っています。 『個人・家族の責任』と『社会・環境の責任』の比率配分などをどう考えるべきなのかという犯罪の自己責任にまつわる主要課題は、以下のような事柄と深い関係があるように思えます。 精神障害の重症度と犯罪行為の関連を科学的に鑑別する方法論、過去の虐待によるトラウマや教育機会の剥奪の成育歴が人格形成に与える影響、自助努力では解決困難な貧困・差別・格差の問題と治療矯正プログラムへの予算配分、微細脳障害(MBD)や前頭前野損傷など脳損傷が衝動性や攻撃性を促進する問題、向精神薬含むドラッグや化学物質の精神機能への作用、マスメディアやインターネットの暴力や性に関連する情報が子供に与える影響など、多種多様な『生物学的・社会的・心理的な要因』が複雑に絡み合うところに暴力や犯罪の行動が生起してきます。 ■書籍紹介 情動とストレスの神経科学 司法精神医学と犯罪病理 高次脳機能検査の解釈過程―知能,感覚-運動,空間,言語,学力,遂行,記憶,注意
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『行為の法的責任』を何処に求めるか?:道義的責任(主体責任)と社会的責任(結果責任)の比重
理性的抑制と本能的欲望が葛藤する脳の構造:『認識能力』と『行動制御』で構成される責任能力の記事で、脳の生理学的機序と刑法の責任能力について雑多な感想を書きましたが、それと関係して、近代法の理念や少年法の問題について書きかけていたので公開しておきます。 環境と遺伝に関係した性格心理学などの問題にも踏み込みたかったのですが、時間がなかったのでまた心理学やカウンセリング関連の記事を書く時に、性格理論・行動原理と遺伝などについても考えてみたいと思います。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2006/10/13 22:01 |
三権分立を前提とする近代法の原則:心神喪失者等医療観察法の理念と処遇について
『行為の法的責任』を何処に求めるか?の記事で、重篤な精神病などで善悪の判断能力を障害された場合や年齢が成人に満たない場合の道義的責任と社会的責任について考えましたが、自由意志の有無と刑罰の有効性(適法性)の関係というのは非常に難しい問題です。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2006/11/19 18:36 |
東京都江東区潮見のマンションで起きた隣人による殺害事件:特異な反社会的人格と都会のマンションの盲点
東京都江東区潮見に立つマンションの最上階(9階)の一室から、僅かな血痕とピアスを残して忽然と23歳の女性が消えた事件は、当初から非常に奇異な印象を受ける事件で気になってはいました。行方不明になっていた23歳の女性は広告会社勤務の派遣社員・東城瑠理香さんであると発表されましたが、事件は予想される幾つかの蓋然性の中で最悪の展開へと進んでしまいました。日々の時間と出来事が絶え間なく流れていく中で、江東区潮見のマンションの失踪事件をほとんど意識することもなくなっていたのですが、東城さんが4月18日... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/05/27 08:25 |
戦争を巡る価値観と原始的な脳・理性的な脳1:大脳辺縁系の情動判断と大脳新皮質の学習の影響
人間には発生学的に原始的な構造を持つ『大脳辺縁系(情動反射の中枢)』と理性的・計画的な高次脳機能を生み出す『大脳新皮質(思考・学習・意志の中枢)』とがあるが、戦争や犯罪を起こす人間は、“大脳新皮質(攻撃性及び本能行動を抑制する前頭前葉)の機能”が弱いからなのだろうか。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/11/26 05:29 |
『宣言的記憶』と『手続き記憶』の健忘症(脳損傷)による忘却リスク:自分で自覚できない潜在的記憶
前回の記事で説明した盲視覚や半側無視の実験では、『見えているという実感・自覚』が無いにも関わらず、見えていないとできないはずの課題を無自覚的・反射的にこなすことができるという事を示しました。自分自身が自覚することのできない知覚、あるいは、自分自身では意識的にアクセスすることのできない知識があるという人間観は『潜在的な認知プロセス』の存在を前提としていますが、S.フロイトが創始した精神分析学もまた『(本人が自分で自覚できない)潜在的な記憶・感情のプロセス』を再現しようとする心理療法としての特... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2011/05/19 08:04 |
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