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『物理的な脳と心理的な意識の並行関係と機械論的生命観の限界』で、人間の脳器官と精神機能の相関関係について考えましたが、精神科医や心理学者、生物学者の中には、『脳の機能(状態)』と『人間の心(精神)』を同一のものと見る唯物論的な精神観を持っている人が少なからずいます。 感覚器官によって知覚され、精神世界において表象(イメージ)され、言語的(技術的)に記述(記録)される現象界の全ては、脳が生み出したものであるというような『唯脳論』を肯定的に捉える人も少なくないでしょうし、『脳という身体器官に依存せずに精神(意識)は存在しない』という科学的事実を、宗教やオカルトを用いずして否定することは難しいと思います。 私自身も、脳(身体)と切り離された形で、精神(魂)が実在しているというルネ・デカルトが想定したような素朴な『心身二元論』は原理的に実証できないと考えますが、現代社会においても、宗教教義や民俗伝承では、身体と切り離された死後の精神や霊魂が仮定されていることがあります。 オカルトや神秘主義、ホラー映画、怪談話、心霊現象などでは、強い未練や憎悪を持って死んだ人が幽霊になって蘇ってきたり、現世に執着心を残して亡くなった人が地縛霊になったり、祖先が守護霊となって自分を守ってくれたり、人工妊娠中絶された胎児が水子になって現れたり、幽霊や霊魂が心霊写真として写ったりしますが、これらの非科学的な現象は全て、『精神は、身体とは別個の実体を持つという心身二元論』に依拠しています。 現代人の多くが、幽霊の存在や心霊現象を真剣に恐れなくなった最大の理由は、脳と精神が完全に同一とは言えないまでも、脳が精神の成立基盤だという科学的知見を信じていて、人(脳)が死ねば人の精神も一緒に消滅するというパラダイムを受け容れているからです。現代に生きる大多数の人が、『そんなことは当たり前の事じゃないか』と思うかもしれませんが、私は、自然科学が発達した時代に生きる現代人においても『身体と切り離されても精神が実体として残存する』という心身二元論の誘惑は相当に強いものがあると考えています。 先人(祖先)を大切にすべしという道徳的な訓話や、死の恐怖を免れさせる精神的な救済として、『死んだ後も、ご先祖様が見守っていてくれるんだよ』とか『他人を苦しめて悪いことをすると、死後に祟られるよ』とかいう話をすることがありますが、多くの人は、こういった霊魂や死後に関する話を科学的枠組みとは別の伝統的枠組みで受け容れています。 霊魂の存在など宗教的価値を徹底的に否定する筋金入りの唯物論者でもない限りは、自分が死後に入る墓碑を欲しいと思ったり、死後に子孫や知人に参拝して欲しいと思ったりする人が現代でも多いようです。身体から切り離された精神など存在しないとする心脳一元論を否定する伝統的枠組みは今も密かに息づいていますし、伝統や慣習だから仕方なく葬式をするだけだという人でも、『死者への敬意・葬式の風習・墓参りの習慣』を完全に失うことには抵抗があると思います。 ここでは、脳と心、自由意志の可能性へと話を進めようと思っているので、何故、『死者への敬意・葬式の風習・墓参りの習慣』を失うことへの根源的な不安があるのかについて詳しく述べる余裕がありませんが、簡潔に言うと、『死者の存在を無に帰さないことが倫理の源泉の一つ』だからです。 別の表現に換言すると、死者の存在を即座に無に出来るならば、この世界には殺人に対する『原理的な悪の認識』が存在しないということになります。死んでしまったから死んだ人の事を哀れんだり悲しんだりしても仕方がないというのは唯物論的な世界では正しいですが、その遺族や恋人、友人との関係性を考慮した情緒的(倫理的)な世界では明らかに誤りですし、犯罪の加害者のみに有利な死生観を提示する不公正にもつながります。 何故、墓参りをして祖先を崇拝するのか、死者を忘れずに覚えているべきなのかについては、『社会秩序を維持する倫理観やアイデンティティを培う為』『自己の有限性に対する不安を緩和する為』『共同体の歴史的連続性を担保する為』という大きく三つの根拠を考えることができます。 身体が消滅してもなお何らかの精神的なものが残るという認識は、他者の生命の尊重や自己の人生を大切にしようとする倫理感覚を生み出す可能性があり、反対に、『肉体が死ねば、精神も消滅する』という認識は、旅の恥は掻き捨て的な刹那的な行動や自暴自棄の暴走の原因となる可能性があります。無論、飽くまで論理的な帰結としての可能性の話であり、『心身二元論的な精神(故人の魂)の継続性』を信じていない唯物論者だからといって、まともな善悪判断が出来ず倫理を踏み外すという意味ではありません。 精神(霊魂)の永続性と絡んだ心身二元論を真剣に信じることの弊害もあり、それは、お祓いや占い、霊媒、墓の販売、仏像販売などで法外な値段を吹っかけてくる霊感商法や新興宗教に騙されやすいという事です。個人の宗教心として祖先供養を手厚くし、死者への敬意を失わない倫理観を持つことは尊いことですが、現在の不幸や病気の原因を、先祖供養や心霊現象、死者の怨念に求める原因帰属はやめたほうが良いでしょう。 科学的実証性を重視する現代精神医学の病理学では、うつ病の原因としての脳内モノアミン仮説や統合失調症の原因としてのドーパミン仮説、グルタミン酸仮説など心脳一元論を前提としたものが増えています。 脳内モノアミン仮説は、セロトニンやエピネフリン(アドレナリン)、ノルエピネフリン(ノルアドレナリン)、ドーパミンといったモノアミン(ニューロン間の情報伝達物質)の神経末端における濃度によって、人間の気分・感情・意欲・意志などの状態が変化するという仮説です。 気分障害(mood disorder)であるうつ病(depression)は、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)やSNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬)の薬理機序から、セロトニンやノルアドレナリンの減少による神経伝達過程の障害が原因の一つと考えられています。 同様に、統合失調症でも、ハロペリドールやクロルプロマジンなど定型抗精神病薬の薬理機序が、ドーパミンの受容体(D2)を遮断することによって興奮の鎮静や陽性症状の改善の効果を発揮することから、気分の高揚や妄想・幻覚に代表される精神運動亢進を起こすドーパミンの過剰分泌が統合失調症の病態に深く関係していると考えられています。 しかし、ドーパミン経路のD2受容体を強力に遮断する定型抗精神病薬(メジャートランキライザー)では、意欲・興味の喪失、感情鈍磨、自閉といった統合失調症の陰性症状の改善が余り見られず、副作用として各種の認知障害・記憶障害を起こすこともあるので、中脳や大脳辺縁系におけるドーパミンの過剰分泌だけを統合失調症の原因と考えることは出来ません。 グルタミン酸仮説というのも、PCPやケタミンの薬理によって擬似的な精神病症状を発現させられるところから着想された仮説で、脳・脊髄の髄液中に含まれるグルタミン酸濃度の低下が統合失調症の原因の一つとなるというものです。 薬物療法の始まりとなるクロルプロマジンが開発されて精神医学が急速に進歩した時代には、『全ての精神疾患は、脳の機能障害である』という理論が流行しましたが、現在では、薬剤だけで精神疾患を治癒させられるという極端な生物学主義は、各種症例研究や統計学的データから懐疑的に見られています。薬物療法は基本的に現時点での不快な精神症状や不適応な問題行動を抑制するという対症療法(維持療法)を目的として行われるものであり、薬物療法と心理療法(精神療法)を適切に組み合わせて行う折衷的な治療法がもっとも効果的と考えられています。 現実社会では、現在でも脳(身体)と心(精神)を切り離して考える『心身二元論』が中心的だと思いますが、科学的な精神医学では、脳(身体)と心(精神)を不可分で同一のものと考える『心脳一元論』の立場を取る研究者や臨床医が増えている観があります。 私達が生活する現代社会で、脳(身体)と心(精神)を切り離して考える心身二元論が常識になっているというと、意外だと感じる人もいるかもしれませんが、『あなたは自分の意志や行動を、ある程度思い通りにコントロールできると思いますか?』という質問をされた場合にどう答えるでしょうか。 この質問に対して、『私は、自分の意志・行動・感情を、まったく思い通りにコントロールすることなど出来ません』と答えるならば、その人は、心脳一元論の世界を生きていることになりますが、同時に、社会的責任を果たす為に必要な責任能力を欠いていることになります。 うつ病患者に対する基本的な対応の仕方として、『うつ病の人に頑張れとか早く良くなって欲しいとか言ってはいけない』という注意が為されたり、『うつ病の人は自分の抑うつ的な気分ややる気の低下を、自分の意志や努力でコントロールすることが出来ない』という教育がされますが、これは、現代の科学的精神医学では、脳の物理化学的状態が、心(気分・意志・感情)の状態を決定するという心脳一元論のスタンスを取りやすいことを示しています。 そして、精神病理の科学的な説明理論として、うつ病の脳内モノアミン仮説や統合失調症のドーパミン仮説は誤っているとはいえないし、うつ病患者や統合失調症患者が、自分の意志や努力で精神症状を克服できないというのも、症状の重症度によってはある程度事実だと言っていいでしょう。 無論、セルフモニタリングを丁寧に行って認知・行動を適応的に修正していく認知行動療法や自己の長所や可能性を積極的に探して自己変革を促進する問題解決志向の短期療法によって、うつ病や統合失調症の精神症状や不適応は改善されるケースがありますから、完全に自己の精神状態や行動内容をコントロールすることが出来ないというのは間違いです。 自己の意志で、気分の状態や意欲の高低をまったくコントロールできないといううつ病の実在に対して、懐疑的な立場を取る人たちは、『うつ病は、辛い義務から逃げたいという甘えの現れである・嫌な事柄をしたくないという怠けや弱さである・不快なストレスに耐える精神力が不足しているだけである』というような精神論(根性論)で反論してくることがありますが、この反論は、疾病利得のみを目的とする詐病や擬態うつ病には当てはまっても、脳の情報伝達過程の障害としての診断基準を満たすうつ病には当てはまらないと考えられます。 医師の臨床経験と自己報告式の面接・自己回答式の質問紙(性格検査)による心理アセスメントでは、『本当のうつ病』か『虚偽のうつ病』かを決定的な科学的根拠を持って判別することはできないとする原理的な批判もありますが、それは、うつ病的な症状を訴えている本人にはある程度わかっていることなので、『精神・行動のコントロール不可能性=心脳一元論』というここでのテーマには余り関係のないことです。 とはいえ、『詐病らしいうつ病』と周囲が感じているケースであっても、本人にとっては、環境不適応からの逃避を合理化する自我防衛機制としてのうつ病の場合があり、『病者アイデンティティ』を強固に獲得してしまっている場合には、本人にも詐病を悪用しているという自己認識はほとんどないと考えたほうがいいでしょう。 身体表現性障害の一つ心気症(ヒポコンドリー)の症状形成機序にも擬態うつ病の病者アイデンティティと似た部分がありますが、本人が確信を持って『自分は、精神疾患を発症した病人である』と自己認知していれば、それを外部の観察者(専門家)が合理的に検証することは非常に難しいといわざるを得ないケースが多々あります。 また、臨床精神医学的(臨床心理学的)な診断や治療は、司法精神医学的な責任能力の有無を厳格に鑑別しようとする精神鑑定とは異なるので、相手の訴える症状や異常が絶対に虚偽でないかを徹底的に解き明かすような立場に立つことはなく、基本的に患者(クライエント)の側に共感して症状や状況を理解していきます。通常の精神医学臨床では、審判的な立場での診断・治療はありえないという事も関係しているかと思います。 先ほど書いた、『あなたは自分の意志や行動を、ある程度思い通りにコントロールできると思いますか?』という質問に『はい』と答えることは、現代の社会秩序の根幹であり、犯罪に対する刑罰を受けなければならない責任能力の根拠となるものです。 『心(自我・意志)』が『身体(脳の状態)』をある程度計画的にコントロールすることが出来るという心身二元論による責任能力の定義は、刑法39条の心神喪失者(触法精神障害者)の責任阻却事由とも密接にかかわっていますが、この問題は、精神医学的・倫理学的に非常に重要なものであり、人間の責任原理の根本を問い直すものなので、時間のあるときにゆっくりと考えてみたいと思います。 最後に、現在の日本の刑法に定められた法理念に基づいた責任原理について言及しておくと、日本では『善悪を判断する認識能力を持っていて、善なる行動と悪なる行動を自由に選択(制御)できる心(意志)を持っている人間』のみに法的な責任能力および判断能力が認められているということになります。 基本的に、ヘーゲルの法哲学の影響を強く受けたドイツ刑法の理論を踏襲している明治に制定された日本の刑法では、善悪を認識し選択できる『自由意志』に人間の責任能力の根拠が求められていて、『犯罪の結果に対する刑罰』ではなく『犯罪の選択(意図)に対する刑罰』という趣きが強くなっていると思います。 この刑法理念の長所は、『同じ殺人であっても、情状酌量の余地(正当防衛など違法性阻却事由・量刑の減免)のあるものとないものとを判別できること』であり、反対に短所は、『重大な結果に対する法的責任を、誰にも問えないケースが出てきて被害者感情が救済されないこと』があります。 国家権力による残虐な刑罰や不当な拘留を排除しようとする近代法の精神は、復讐法の原理を排除して教育法の原理を採用する改革を推し進めてきましたが、現在では、犯罪加害者の人権保護と犯罪被害者の人権保護との格差の大きさが問題視されることが多くなり、復讐法的な要素を刑法の理念に取り戻そうという気運が一部の犯罪被害者団体などを中心に高まっています。 法学的な問題に深く踏み込むには勉強が足りていないので、とりあえず、脳と心、心理学と精神医学の知見から自由意志と決定論の根底にアプローチしてみたいなと考えています。つまるところ、心神喪失者の責任能力のポイントは、『他人を殺すか殺さないのか、他人を傷害するのか傷害しないのかについて行動制御(選択・企図)の可能性があったのかなかったのか』という問題へと帰結していき、究極的には、重篤な精神障害や薬物乱用状態の人間に自由意志の成立余地があるのかという疑問に行き着くと思います。そして、その問題は、善悪の識別と行動の選択が可能な正常な精神機能の側からは、なかなか十分に考察することが難しい問題でもあります。 あるいは、責任能力の有無や生物学的成熟の程度とは無関係に、凶悪な犯罪に対しては『結果に対する責任』が普遍的に問われる必要があるという倫理観ないし法理念もあるでしょうし、少年法や刑法39条に強く反対して凶悪犯罪の厳罰化を願う人たちも少なからずいるのだと思います。 人間の精神機能と犯罪行為、法的責任と刑罰の付与を考えるに当たっては、『個人の人権・疾患の治療・社会の安全・被害者の救済』の間で、大多数を納得させ得る論理的一貫性のある法学的な議論や精神科学的な検証を行っていく必要があると考えています。 ■書籍紹介 刑法三九条は削除せよ!是か非か 刑事責任能力の本質とその判断
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理性的抑制と本能的欲望が葛藤する脳の構造:『認識能力』と『行動制御』で構成される責任能力
『泣くから悲しい』のジェイムズ=ランゲ説が発表当時にもたらした衝撃は、『涙腺から涙が出る』という生理学的変化が『悲しみを感じる』という情動反応よりも時間的に先に起こるという事でした。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2006/10/07 22:30 |
三権分立を前提とする近代法の原則:心神喪失者等医療観察法の理念と処遇について
『行為の法的責任』を何処に求めるか?の記事で、重篤な精神病などで善悪の判断能力を障害された場合や年齢が成人に満たない場合の道義的責任と社会的責任について考えましたが、自由意志の有無と刑罰の有効性(適法性)の関係というのは非常に難しい問題です。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2006/11/19 18:36 |
大泉実成『人格障害をめぐる冒険』の書評:1
司法精神医学に基づく精神鑑定の重要な鑑定事項として、『加害者の法的な責任能力』の判定と『刑罰の適用可能性』の判定があるが、現在の日本の刑法では心神喪失者や心神耗弱者と鑑定されれば刑罰の量刑が減免される可能性が高くなる。私も本書『人格障害をめぐる冒険』を読むかなり前に、過去の幾つかの記事において(最後に挙げる関連URL参照)重篤な精神障害と法的な責任能力の問題について考えてきたが、刑法の責任原理が有効になるためにはその人間に『善悪を判断する自由意志』が存在しなければならない。 ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2007/07/02 06:30 |
死刑存置論と死刑廃止論が仮定する人間観と自由意志の強度:自律的な倫理主体としての人間と環境
刑事裁判が国民感情と応報原理の正義に偏り過ぎると、加害者にとっても被害者にとっても『事件に対する世間の関心の強さ・被害者の人間関係が持つ物語性=共感可能な属性の多さ』によって、裁判の公正性・量刑水準の妥当性が損なわれる可能性がある。個人的復讐の国家による代理執行をどう価値判断すべきなのかは難しい問題だが、『応報刑としての死刑』を肯定するということは、復讐原理と社会正義とを同一視するような世界観を持つことを意味する。現代日本における死刑は法理的には『被害者の代理復讐』ではなく『社会防衛的な排... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/04/25 08:13 |
成人年齢・選挙権年齢を20歳から18歳に引き下げるという議論と社会的な判断能力を培う教育課程の必要性
民法上の成人年齢を20歳から18歳へと引き下げるべきかどうかという議論が見送られることになったが、ニュースのコメントなどネットの書き込みをざっと見渡すと『反対・どちらかというと反対』という変更に対して慎重な意見のほうが多い印象である。日本の成人年齢を国際標準に近い位置づけにある『18歳』に合わせることは喫緊の課題であるとは思わないが、少子高齢化社会(若年世代の人口比率・票数での発言力が低下する社会)が本格化することを考えると、『政治的意志決定における世代間の利害調整』という観点ではいつかは... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2008/12/18 02:34 |
“名古屋・闇サイト事件”の判決から考えたこと:償いようがない罪の重さと罪の意識の欠如の間にある落差
『闇サイト殺人事件』の被告3人に対して、名古屋地裁は自首した1人(川岸健治)を無期懲役、2人(神田司,堀慶末)を死刑という判決を下した。被害者となった女性は1人であり、永山基準の確立(被害者1人の事件には原則として死刑を適用しない)以降の判例に鑑みれば、死刑判決は重いと言えるだろう。裁判員制度を控えて厳罰化を求める世論が大きくなる中で、利己的かつ情状酌量の余地を見出させない本件のような重大犯罪に死刑を言い渡した意義は大きい。1人が無期懲役になったことを甘いとする批判もあるが、『自首による減... ...続きを見る |
カウンセリングルーム:Es Discov... 2009/03/22 03:18 |
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