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現代社会では、身体的・精神的な児童虐待によって傷つけられる子どもの存在がある一方で、大多数の子どもは親から愛情を受けて幸福に健康になるようにと大切に育てられます。 日々のニュースの中では、子どもを虐待して殺害してしまった親やパチンコや異性関係などの遊興に耽溺して育児を放棄する親が取り上げられたりする機会が多くありますが、それでもやはり大部分の親は子どもが元気に幸せに成長してくれることを願って自分の子どもの生命や権利を大切にしています。 自分の子どもを叱り付けて体罰を科した先生に苦情を言い立てたり、自分の子どもの犯した暴力や犯罪が認められずに『これは何かの間違いで、うちの子は絶対にそんなことはしない』といった考え方などは、典型的な過保護な教育方針の例ですが、そこまで極端ではなくても一般的に自分の子どもを外部の有害な環境や危険な誘惑から守らなければならないといった親が多数派であるといって良いでしょう。 『子どもへの強い愛情による保護的な育児観』は、市場経済が発達して学校教育が普及した先進国ではほぼ普遍的に見られる育児観であるといっていいですし、『社会的な自立のモラトリアムが遷延する青年期特有のアイデンティティの問題』も職業選択の自由とモラトリアムを維持できる家庭の経済力がある先進国(青年という概念が一般化した近代国家)に特有なものといえます。 人類の文明の発達段階の途上では、狩猟採集・農耕牧畜の段階の社会において子どもは貴重な即戦力のある労働力であり、乳幼児死亡率の高さもあって母親は多産の傾向がありました。 説明を簡単にするために、便宜的に文明の発達段階の史観を取りますが、特別に文明文化間の優劣といった価値判断を意識するものではありません。文化相対主義の観点では、文化相互の間に優劣や高低はないとされますが、ここでは「産業社会の複雑化や自由度の増大」といった観点から文明の発達段階を前提として考えてみます。 この人類の初期の狩猟採集の文明の段階から脱した古代ギリシアやローマの文明社会でも、王族貴族や豪商など特権階級の子弟を除いて、親が子どもに学術的な教育や技術的な訓練を投資することはありませんでしたし、またその経済的余裕もありませんでした。 封建的な社会制度の下では人は生まれながらにしてその身分や職業が規定されていることも多かったので、基本的に青年期における職業選択の葛藤やモラトリアムの遷延などの問題は起こりようがありませんでした。 また、両親は人並みに自分の息子や娘に愛情を注いだでしょうが、現代の親のように成人した子どもを長期間養うような経済力を持っていませんでしたし、地域社会の相互干渉的なコミュニティではそういった非社会的生活状況を長期間維持することは極めて困難だったと考えられます。 イギリスで産業革命が勃発してからも暫くの間は社会的分業はそれほど多様化しませんでしたし、階層間の人口移動も微々たるものでまだまだ生まれ落ちた環境によって身分や職業が規定されてしまう時代が続いていました。 こういった生まれた環境の初期条件によってその後の人生の過程が大部分決まってしまう自由の乏しい社会では、基本的に、青年期特有の心理的問題やアイデンティティ拡散は起こる余地がほとんどありません。 その意味で、青年期の発達課題であるアイデンティティ確立は、一定以上の文明の発達段階を成し遂げた社会(共同体)でしか生起しない心理発達的な問題だと言えます。 職業が多様化しておらず、村の住民全員が狩猟や牧畜といった同じ仕事に従事している遊牧民などでは、自分がどういった職業に従事すべきなのか、自分にはどういった社会的役割をこなせるのかといった青年期特有のアイデンティティ確立や拡散の問題はほとんど発生しません。 この事は言い換えれば、『社会的アイデンティティが、他者との差異や比較に基づく自己規定の問題』であることを意味しています。 例えば、同じ共同体内部で選択できる職業や地位の数が極端に少なく、それぞれが得られる報酬や評価がほぼ平等なのであれば、即ち、『結果平等的な社会の場合』には青年期のアイデンティティの苦悩は大きく低下するということが言えます。 但し、過去の単純で平等な未開社会や身分が固定された封建社会で生きる子どもには、アイデンティティの葛藤が少ない代わりに、未来の可能性(職業・地位・仕事内容)を自由に選択することが出来ない、個人として十分に尊重されないという問題があるので、青年期の葛藤の有無だけを判断基準としてどういった文化文明が好ましいかを決めることは出来ません。 また、18〜19世紀の段階のヨーロッパやアメリカ、あるいは、太平洋戦争の時代から戦後間もなくの日本では、まだまだ『子ども優位・子ども中心の家庭』よりも『親(年長者)優位の家庭』のほうが多数派でした。 日本で優勢だった儒教道徳では、明らかな祖先崇拝の原則があり、社会一般でも目上の者には敬意を払い反抗してはならないという『長幼の序』の雰囲気が満ちていました。 現在の臨床心理学や児童福祉の領域では、『子どもが子どもらしい文化的生活や有意義な経験をできる家庭環境や社会制度の重要性』が強調されますが、こういった『子どもの幸福と可能性を保障する権利』が発見され重視されてきたのは、歴史的にはつい最近のこと(20世紀の末頃)であるといって過言ではないでしょう。 工業化の発展途上にあった近代社会では、子どもは重要な労働力であり、10代前半などまだ十分に心身が発達していない段階で、工場や商家などに丁稚奉公に出されるのは極々当たり前のことでしたし、それに対して子どもが『行きたくない、やりたくない、勉強をしてから他の仕事をしたい』という異論を言う余地はありませんでした。 基本的に、近代以前〜近代初期までの時代では、特別な上流階級の子弟を除いて、子どもは労働資源であり親の所有物のような扱いを受け、子ども固有の人権や尊厳のようなものを社会的に法認して保護するといったような動きはあまりありませんでした。 18世紀後半には、先鋭的な思想家であるジャン・ジャック・ルソーが出て『エミール』などの著作で子ども固有の権利の尊重や子どもの創造性を開花させる教育環境の重要性を社会に向けて啓蒙しましたが、多くの大人達は、子ども全員に学校教育を与えてその才能を伸ばしてあげるというような発想は理想的だが現実的ではないと考えていました。 そういった子どもにとっての暗黒時代は産業革命を終えた単純労働者の需要が最も多い時代に一層その闇を濃くしていったのですが、結果的には、産業社会の発展による単純労働者の需要減少や子どもを守ろうとするフェミニズムや啓蒙思想の影響などもあって子どもに対する不当労働は次第に減少に転じていきます。 もちろん、その背景には工場労働者達の経済力向上による中流階級の勃興や社会の産業構造の高度化・複雑化による専門家育成の必要性などの影響もありました。 国際的に子どもの権利を保障しようとする運動が明確な形になったのは、20世紀も終わりに近づいた1989年でした。 1989年に開催された第44回国連総会で『子どもの権利条約』が採択され、90年9月2日に国際条約として発効されたことにより、とりあえず、建前の上では子どもは全て教育や保護、医療を受ける権利を所有し、その権利を行使できることが確認されました。 しかし、子どもは実際には身体的に未熟で、精神的にも脆弱な存在ですから、大人が本気で傷つけたり搾取しようと思えば極めて無力な存在です。 国際的なレベルではまだまだ『子どもが教育を受け保護される権利を有する尊重されるべき人格』であるという認識は十分にいきわたっているとは言えない現状です。 子どもが権利を所有しているのだから、それを自由に行使すればいいという考え方ではなく、その生まれながらの所与の権利を大人達が暖かく見守りながら行使できるように手助けしてあげなければならないということが言えると思います。 『子どもの権利条約』は、子どものいる親御さんだけではなく、これから子どもを持ちたいと思っている若い人たちや今、学校に通っている子どもたち、もしかしたら子どもを傷つけてしまいそうな大人たちも読むべき価値のある条約ですから、是非、時間のある時に以下のUNICEF(ユニセフ)のリンクを読んでみてください。
私たちの住んでいる日本は世界でも有数の『子どもの権利が手厚く保障された国』の一つですし、過去の歴史でも子どもを優しく大切に扱う文化伝統を大切にしてきました。 NEETやひきこもりの問題などで過保護や甘やかしなどの親の養育態度が批判されたりもしますが、成人以後の子どもでも責任を持って面倒を見ようとする親、経済的に困窮して子どもがホームレスや犯罪者になるのではないかと心配する親を持つような国はそうそうあるものではありません。 その観点から言えば、日本は非常に母性原理の強い家庭が多く、子どもをギリギリまで見捨てない親が多数であるといえるでしょう。 先進国でも個人主義の浸透した文化圏では、いくら自分の子どもであっても一定年齢を超えれば養う義務などないといって家庭の外へ放り出して後はどうなろうとしらないという親も少なくありませんし、途上国では子どもの夢や希望など関係なく基本的な読み書きの教育も受けさせて貰えず労働に従事させられている子どもが数多くいるのです。 その意味では、NEETやひきこもりであっても、子どもはある一定水準以上の親からの保護や支援を受けているということが言え、少なくとも子どもが『自分は親から愛されておらず、粗末に扱われている』といった非難を行うことは正しくないと言えます。 過保護や過干渉は結果として子どもの適応力や自立性を低下させますが、親が子どもを不幸にしようとしてそういった愛情表現や育児方法を行っているわけでないことだけは確かです。 少なくとも、子どもを完全に見捨ててはおらず、何とかして子どもを自立させてあげたい(子どもに生き生きと楽しい人生を送って欲しい)という愛情があるからこそ、親は子どもの社会環境への不適応に悩み苦しむのです。 そうでなく愛情や優しさなどない親もいるかもしれませんが、非社会的な生活状況を支えているという意味で、最低限の経済的支援を子どもに与えていることには変わりがありません。 日本にも育児環境を巡る家庭や政治や経済、社会の問題は確かにありますが、それでも、18歳未満の子どもが人身売買されたり、売春を強要されたり、過酷な肉体労働を強制されたりする状況はほとんどありません。 極めて稀なケースでそういった悲惨な状況に置かれる子どももいるかもしれませんが、社会一般でもそういった子どもの不当な搾取や労働への使用は許さないといった子どもを守る雰囲気が強くあります。 基本的な教育を与えずに即座に労働力として利用して家計を支えさせるといったような価値観も日本では少数派でしょうし、多くの親は出来うる限りの教育支援や能力開発の援助を子どもにしてあげたいと考えています。 最後に、日本の家庭の今と昔を簡単にモデル的に振り返って、家族関係から生じる社会的自立や心理的葛藤の問題を見てみます。 かつての儒教道徳と家父長制によって営まれる家庭生活では、子どもは親に一身を捨ててでも忠孝を尽くさなければならないというような価値観があり、親に心配や迷惑を掛ける不孝は最大の不徳の一つと考えられていました。 現代の日本でも、親を尊敬して孝行しなさいというような道徳規範は残っていますが、家父長制のような厳格な親の権威性は存在せず、親の命令に服従する子どもというような考え方はありません。 もちろん、個人としての子どもの幸福や権利を十分に尊重しない過去の家庭観が正しいわけではありませんし、「家系(一族・家督・血統)存続の為の子孫」といった道具化された子どものあり方が望ましいわけではありません。 ただ、現代社会の家族関係によって生まれる子どもの問題の多くにかつての親子には見られにくかった「力関係の逆転」があることを指摘することは出来るでしょう。 親と子の上下関係や役割意識というものは基本的に現代では希薄化していますから、必然的に友達のような対等な立場の親子関係が多くなってきます。 これが十分に自立した子ども(青年期の子ども)との対等な関係であれば、一緒にお酒を飲みながら会話を楽しんだりする良い親子になれるのですが……いったん、家庭内暴力やひきこもりなどの問題が起こってくると、親が子どもの自立を促進するようなコミュニケーションや指導を行うことが難しくなってきます。 親が、子どもに対する上下関係や権威性を打ち立てる必要は必ずしもありませんが、最低限、子どもから軽蔑されない馬鹿にされない程度の存在感を保持しておくほうが青年期の子育てにおける問題は解決しやすくなるでしょう。 また、思春期や青年期の心理学的問題や青年期の行動選択と社会構造との相関などについてもう少し考えてみようかなと思います。 ■書籍紹介 エミール〈上〉
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