趣味のWebデザインの『歴史を書かない女性たち』という記事を興味深く読ませて貰い、『ウェブサイトの歴史を残す行為と男女の性差』について色々なことを考えさせられました。
何故、インターネットに公開されたウェブサイトとして一定以上の成功(数百万のページビューと多くの利用者)を収めた歴史を、女史中高生は記録に残さずあっさりと削除してしまうのか?この問いかけは、サイト制作者の心理を問うものであると同時に、歴史事象を記録する人間の欲求を問うものであるように感じます。 女性ばかりが参加していた世界(コミュニティ)の歴史が何故、残りにくいのかという疑問は、文献資料に残された父権社会以前に母権社会が存在していたと推測する歴史家や文化人類学者にも通底する疑問かもしれません。 単純に男性と女性の二元論で、歴史記録の担い手について語ることは、固定観念の弊害へと堕する危険がありますが、一般的に言って女性よりも男性のほうが歴史に対する興味関心が強い傾向は認められると思います。 この事は、現在、史実として残されている歴史資料の大半が、『権力者・成功者・異能者・革命家の歴史』である事とも関係しているのかもしれません。 歴史物語とは、詰まるところ、栄枯盛衰を繰り返す権力の交代劇であり、人類の芸術表現活動の足跡です。 そこでは、何らかの『残すべき価値のあるもの』が必然的に記録され伝承されていくこととなります。 『残すべき価値のあるもの』の基準は誰がどのように決めるのかという議論もあるでしょうが、この議論に確定的な回答を示すことは困難です。 特定の個人や集団が、残すべき価値のある事象や作品を選別して継承するというのも、期間を限定すればあるかもしれませんが、古代から現代に至るまで残されている歴史の多くは、長期間にわたる歴史的淘汰を潜り抜けて抽出された歴史でしょう。 自然な歴史的淘汰を強調すると、『歴史は権力による改竄や・捏造を含んでいて、人為的選別の側面を否定できない』という異論もあるでしょう。 しかし、現代社会において鎌倉幕府や江戸幕府の正統性を歴史解釈によって必死に主張する人があまりいないように、自然な時間経過によって、過去の特定の政治権力を正当化しようとする人たちの数は減滅していくと考えるのが道理です。 (注記:権力の範囲を、特定の個人や集団(政府)から現存する民族・宗教・国家・身分制にまで拡大すると、何千年も前の先祖の業績や領土を誇張することで、現在の自分たちの行動や権力を正当化しようとする動きは認められますが……とりあえず、政治闘争や外交交渉を有利に進める道具や手段としての歴史は今回の記事では除外して考えます) 確かに自民族の輝かしい栄光や伝統の長さを強調するために、恣意的な修正や誇張を歴史解釈に忍ばせることはあるかもしれませんが、過度な修正や誇張を施した歴史観を提示する歴史家の仕事は、学術的な信頼を寄せられ難く、やはり長期のスパンで見れば、歴史的淘汰を免れ得ないのではないかと思います。 ここまでの話は、人類の歴史記録の継承に関する私見で、女子中高生が何故、自分のサイトや交流関係の歴史記録を残さないのかという話とは余り関係していません。 しかし、サイト制作者の女性が、自サイトの歴史を語り残すことに拘泥しないことと『正統性や系譜を示す歴史を継承したいモチベーション』とは少なからず関係しているのかもしれないという直観はあります。 現代に至るまでの歴史は『政治権力の推移・経済情勢の変化・文化芸術の潮流』を中心として記述されていますが、その背後には膨大な数に上る無名の庶民の生活と歴史があるはずです。 しかし、歴史を生きた圧倒的多数である庶民の生活や生涯は、文芸作品や歴史史料の中に僅かに忍ぶことが出来るだけで、多くの場合、個人を識別する名前も付されておらず、歴史物語における脇役という扱いに甘んじています。
ここまで語ってきた歴史は、教科書や公的資料に残される歴史という意味合いが強くなっていますが、インターネットにおいて自らの歴史を刻み残すことは、公的な歴史を残すこととは、全く意味合いが違うことに留意する必要があります。 公的な歴史に名前や仕事を残すことは通常『自分個人の意志』のみでは不可能ですが、インターネットに名前や仕事を残すことは、(残せる期間は限定されますが)『自分個人の意志』のみによって可能です。 期間限定とはいえ、素晴らしいコンテンツの公開期間が長くなれば、そのコンテンツに価値を認めた閲覧者がハードディスクやメディアに保存する機会が増えますから、自分のコンテンツが生き延び続ける確率は上がっていきます。 公的な歴史に名前や業績、作品を残す為には、一定以上の他者や有力な権威による公的評価を必要とする一方で、ウェブサイトの形で名前、業績、作品を残すことは、『一定の経済的負担』と『自己の記録保存の意志』のみで成し遂げることが出来ます。 私も何故、女性が男性よりも自サイトの歴史を記録して残さない確率が高いのかの根本的な理由は分かりませんが、『歴史を残す事の意義や本質』と『女性的なライフスタイルと価値観』が折り合いにくい部分があるのではないかと思います。 少し前には、自分自身の歴史を書き残す『自分史』のようなものが流行したこともありましたが、実際に、自分史を記述して自分の子孫に残したいと思うような人も女性より男性のほうが多かったように思います。 私が、ふと思ったのは、女子中高生のサイト運営者は、『“サイト管理者”であって“サイト制作者”ではなかったために、自サイトそのものの歴史を残すことへの関心や執着がなかったのではないか?』ということです。 巨大なアクセスを誇った人気サイトを運営していた女子中高生にとって、そのサイトは『自分の心血を注いだ愛着あるコンテンツを公開する場所』というよりも『共感的な友人が集まってコミュニケーションする場所』という位置づけが強かったのではないでしょうか。 自分の制作したコンテンツが“主”で、そのコンテンツを元にコミュニケーションすることが“従”である場合には、『サイト制作者として、自サイトの歴史を記述し残したいというモチベーション』が高まるように思えます。 一方で、自分の制作したコンテンツが、そのコンテンツに興味や共感を感じてくれる仲間を集める為の“従”で、そのコンテンツを元に共感的な面白いコミュニケーションをすることが“主”である場合、『サイト管理者として、自サイトの中で楽しく会話や交流のできる環境を維持するモチベーション』が強くなってくるように思えます。 私が前述した『“サイト管理者”であって“サイト制作者”ではなかったために、自サイトそのものの歴史を残すことへの関心や執着がなかったのではないか?』というのは、そういったコンテンツと人間関係の主従の文脈に依存して定義される『管理者・制作者』のことです。 『コンテンツを主とする制作者』『コミュニケーションを主とする管理者』というステレオタイプの類型論を前提として、ウェブサイトの生成消滅を眺めるとき、やはり、女子中高生の中には後者のサイト運営者が多いのではないかと思えるのです。 極端に言えば、大勢の人が集まらず、誰からも何の意見も貰えなくても、自分の制作するコンテンツに一定の価値があると思えるかどうかということなのではないでしょうか。 自分のコンテンツにある程度の普遍的価値を見出し、僅かでも、見に来てくれる閲覧者がいる状況があるのであれば、『自分のウェブサイトやコンテンツをそのまま保存したいとか、何らかの形で自サイトの歴史を語り残したいという欲求』が湧いてくるのだと思います。 反対に、自分のサイトに集まってくれる友達や仲間と楽しく話し合うことがサイトを更新維持する唯一のモチベーションとなってしまうと、その友達や仲間に生活状況の変化などがあって、自サイトに遊びに来なくなったときに、急激にサイトを更新維持する気力や意欲が低下してくると考えられます。 私は、以下に引用する徳保さんの文章に示唆を受けて、上記の記事を書いたわけですが、女子中学生が、同世代の閉じたコミュニティを形成してそこから離脱していく過程において『サイトの閉鎖・消滅』が相次ぐという部分を非常に興味深く拝読しました。 段階的なコミュニティの拡大を踏まえた発達論の視点は、発達心理学的な観点からも慧眼だなと思いました。
『歴史を目に見える形で残して、折に触れその歴史を想起したいとする過去志向』と『今現在の対人コミュニケーションの快にこそ意義があるとする現在志向』……思い起こせば、誰もが若かりし時代には『今、ここにある喜びや充実感』に重きを置いていたのかもしれません。 歴史の教科が嫌いな中学生は、『何故、昔のことをわざわざ現代に生きる俺たちが学ばなければならないの?無意味じゃん』という発想をしますが、一定の年齢になってくると『消えてしまうことの抗いから、自身の存在証明を歴史に刻みたいという願望』が生まれてくるという傾向もあるかと思います。 とはいえ、何故、女性が男性よりも歴史的記録を残さない傾向があるのかについては不十分な説明ですね。 他者からの承認欲求や権威主義が男性のほうが強いのだとか、正統性や系譜由来についての意識が男性のほうが強いのだとかいった一般的な推測には明確な根拠がありません。 同様に、女性は観念的な思索よりも実際的な行動のほうを好むものだとか、歴史的な価値や過程に対する興味が平均的に低いだとかいう根拠を、経験的な実感から示す人もいるでしょうが、そういった類型論は多くの場合、環境による先入観や伝統的ジェンダーの影響を受けているものです。 男女を問わず、生活世界や人間関係への関心の強さと比較して、テキストから想起される心的表象への興奮が小さければ、わざわざ自分の些細な日常生活や思考の履歴をテキストとして書き残そうというモチベーションが起きにくいということは言えるかもしれませんが。 『人間は何故、歴史を記録編纂し語り伝えていくのだろう?』というマクロな視点の疑問には、一般的なもっともらしい解答を与えやすいですが、『私は何故、自分の歴史を記録し後世に残したいのだろう?あるいは、私は何故、過去や歴史に余り関心がないのだろう?』というミクロな視点の疑問は、個別的な価値観や人間観が関与してきますから、ずばり核心を突いた答えを出しにくいものだと感じました。 ■関連URL 包み込む母性原理と切断する父性原理 ■書籍紹介 ウェブログの心理学
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歴史記録の担い手としての性:歴史を書き残す行為とは何か?
現在、残されている歴史記録の大半は男性の手によって書かれ、史実とされる歴史過程の主役(指導者・重要人物・運動家・芸術家など)も男性が圧倒的多数を占めます。 そして、歴史に名前を残している人間の大半は、強い権力を持って共同体や集団を主導した者、抜きんでて優れた作品を残した者、時代を変革するアイデアを輩出した者、大勢の共感や了解を得るテキストを記述した者です。 ...続きを見る |
カウンセリング・ルーム:Es Disco... 2005/08/30 17:35 |
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